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写真で何ができるだろう?写真でしかできないことは何だろう?What can we do through photography? What is possible only through photography?

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第10回 写真新世紀展2001 公開審査会開催報告

公開審査会 2001年12月8日(土)

東京・青山モーダポリティカにて写真新世紀展2001を開催。 初日8日には、審査員 荒木経惟氏、飯沢耕太郎氏、南條史生氏、木村恒久氏、都築響一氏による公開審査が行われました。 第23回、第24回公募優秀賞受賞者が、審査員と来場者の前でプレゼンテーションし、作品についてや、写真に ついての熱い思いを披露してくれました。 その後の審査の結果、300人以上の来場者が見守るなか、特別賞に新沢ももさんと中西博之さんが選ばれました。

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公募の審査にあたって

第10回 写真新世紀展2001 公開審査会は第23回・第24回公募作品を対象としています。

第23回 審査総評

荒木 経惟 Nobuyoshi Araki

今回はものすごく力作揃いのイイ作品が多いですね。みんな成熟してきましたよ。「おもしろければイイ!」という様な感覚的な感性を持っていて、非常に時代性を感じさせます。カメラを持つこと、撮ることによって、みんなが楽しい人生を過ごしている。これは素晴らしいことですね。みんなが幸せになれるんですから。何でもないコトの中に何かあるということ、何でもないコトを撮る良さやそれに匹敵する写真の量の話は、以前に関係があるっていっちゃったから、まずは深刻に考えないで撮ってみる。まずはそこから始まります。イイ意味で今は修行時代。でもみんなわかってますよ。自分のコトをやるのが写真だっていうことが。風景と景色の間のしみじみした写真が増えてきました。佳作が足りないくらいレベルがどんどん上がっています。でも佳作というよりは、やっぱりまだまだ与作かなぁ!?(笑)。

飯沢 耕太郎 Kotaro Iizawa

ぶ厚いブックを見るのはほんとうに疲れる。一人で10冊も応募してくるやつもいて、いささかうんざり。何度も書いているけれど、量があればいいというものではない。まず、自分で写真を選ぶこと。選べないというのは、結局才能がないということになる。体当たりの眼力勝負もいいけどコンセプトをきちっと固めたクールな作品ももっと見てみたい。

南條 史生 Fumio Nanjo

今回は相当な出展数がありましたが、印象としてはバリエーションが非常に少ないという感じを受けました。特に身の回りを撮った写真、毎日の生活、普通の生活などをテーマにした作品が多く見られます。この現象は仕方がないことなのかもしれませんが、一方ではそうではない別の成果がみたいと私は思うわけです。それから友だち、ガールフレンド、ボーイフレンドと旅行して撮ったスナップショットが多いですね。そういうものは、余程独自の視点がないとそのまま作品にはならないと思った方がいいのではないでしょうか。漠然と旅先で撮ってきたもので、クォリティの高い作品は少なかったと僕は思っています。技術面でいうと、今回はプリンターを使ったものやコンピュータ出力で作られたものが相当多かった。またアルバム形式の写真集がすごく多く、サイズの大きな作品も多かったという印象です。

木村 恒久 Tsunehisa kimura

新鮮な風が流れる、潮目の変化を痛感します。応募した若い目に共通する感性は、物静に「看る」「看取る」といった詩的眼差しへのシフトでしょう。「看る」無常の感覚は、なにか瞑想に近い知覚の束ですね。優秀賞、佳作作品選出に共通するのは、心の中で成長した精神美の自意識を、強い意欲で表現する作品。そればかりではなく全体に精神的体験への期待の高まりを映し出す作品が多いように見受けます。印象に残る作品は、日常が異常にズレたというか、思考停止の切れ目のような空っぽの光景。深夜コンビニの人影とか、黒いアスファルトの路上に散乱するカラフルなビタミン剤。こういう空しさの気配に、若い目は恋をしている感じ。それは俳画的精神性への感受性の開花でしょうか。コンビニやビタミン剤は今や、俳句の季語と等しいキーワードですから。過剰に反応すると、不完全燃焼の空っぽの場面をじーっと「看取る」視点には、なにかしらの「原罪」意識が投影されているように見えます。
欲望の出現が原罪として裁かれることを契機にヒトは、新たなフレームで知恵を甦らせた「知」再生の「発火点」が一神教「原罪」の真意のようです。この比喩から連想すると、欲望の幕切の跡のような空っぽ光景に恋するエスプリには、新たに芽生える知の科学反応を感知する回路がインプットされているとみれなくもない。のっぺらぼうの判断停止の空間を、亀裂が走る現代の不毛現象と告発するドキュメンタリー・ヒューマンタッチは、裁く立場の法廷の目では。ヒトは際限なく欲望を生産する欲望機械だから、「看る」眼差しの奥には、裁かれる痛みを共有しながら、新たなる「知」の在り方への目の探索が秘められているようです。
胸の中に刷り込まれた文化遺伝のイコン(聖画像)の多くは、盛大に樹木が繁る鎮守のようなシーンが多いです。応募の若い感性には、ドアの小窓からおはようと覗いたすすけた都市のピンボケに、鎮守の森の聖なる意味をダブらさせた感触が目立ちます。それはA・I(人工知能)がねだる、故郷の原風景に近い感触では。写真の「力」とは、写真の中でしか存在しないビジュアルリアリティを創り出す表現力です。若い作家たちは、始発前駅の無人キヨスク横に佇む濡れた迷子ネコの後姿などを、写真の「力」で聖なるイコン像として現すのだと言う、強い願望があるようです。ですから、「看る」「看取る」は感傷ではなく、堅固な意志のモニターリングでしょう。

第24回 審査総評

荒木 経惟 Nobuyoshi Araki

今回の応募作品は今後の動向を占うものになるんじゃないかな。なんせ新世紀ですからね。自分の感性を発見して生き生きしなくっちゃいけません。写真を見て滅入るというのか、しけた気分になるのはイヤですね。写真を撮ることで自分の感性や感情が自分の何かを発見してくれる。だからどんどん写真がおもしろくなっていくんですよ。言葉には出せない魅力があります。そうなってきたというのは、かなりイイ線いってますね。自分のスタイルがある。誰になんと言われようが私はこれで行くという元気です。現実は小説より奇なりといいますが、本当に凄いアートがありますよ。タイトルも凝っていて、みんな詩心が出てるのかなぁ、なかなか文学しています。

飯沢 耕太郎 Kotaro Iizawa

「写真新世紀」の出品作品の中によく見られる傾向として、「ライフ人生」、「私生活」を日記のように綴る作品が目立つ。生と死が交錯するような、そのイメージの連鎖は強く心を揺さぶられるものが多い。ただ、同じ様な写真が並ぶと言葉はあまりよくないかもしれないが、やや食傷気味になる。よほどの工夫、あるいは力業が必要かもしれない。もちろん、こういった主題に挑戦するのはいいことなのだが。

南條 史生 Fumio Nanjo

なんかますます数が増えるなあ、と言う感じです。ひとりひとりが出品する作品ももはや一点だけで出品なんていう人はいない。相当の作品数で、その狙いというか、背景の文脈を見せようとしている。それはいいことだと思う。なぜなら審査する方も、その作品が偶然できたものでなく、意図を持って作られたものだということがはっきりつかめるからだ。作品の雰囲気は、以前よりも、多様になってきたような気がする。私生活と裸を主題にしたものが以前は多かったが、それがもっと幅広い展開になっているような気がする。全体にテクニックは上がっている。一枚一枚のプリントも丁寧で、きめ細かい。アルバムにしても、悪趣味なものや、素人臭い作り物は減ってきて、きわめてプロフェッショナルな作りのものが目に付くようになった。プレゼンテーションとして、人に見せるきちんとしたものになっている。主題は、相変わらず自分と自分の生活をテーマにしたものが多いが、そうした生活の中にいかにドラマを読みとるか、その目が大事なのだ。一方で、ある種のコンセプチュアルなアプローチも増えている。一つの視点で、継続的に世界を切り取ってみる、そんな態度が明快なシリーズの成立につながる。その視点に含蓄があってさまざまに展開可能であれば、それこそ意味深い方法論を生み出したということになるだろう。審査は私にとって、以前よりももっとエキサイティングなイベントになりつつある。

都築 響一 Kyoichi Tsuzuki

人は、君の日常生活なんかに興味はないのだ。君の自分探しの旅や、かわいい彼女や、バアさんの臨終や、まして君の結婚式なんて誰も見たくないのだ。そういう人たちをムリヤリにでも自分の写真世界へと引きずり込むには、なにが必要なのか。それをもう少し考えてほしい。たとえば、それは卓越した技術であったり、飛びぬけた対象物であったり、思いの純度の深さであったりする。プロであるとは、そういうことだ。今日はたくさんの写真を見たが、正直言ってなんだか椅子に縛り付けられたまま、耳元でミツル(326)の詩を延々聞かされているような、イヤな気分になる時間が多かった。とにかく突き詰めていくこと。これ以上ないという地点まで。説得力はそこからしか生まれない。

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