第12回 写真新世紀展2003 公開審査会開催報告
公開審査会 2003年11月22日(土)
東京都写真美術館にて「写真新世紀展 2003」公開審査会を開催。審査員 荒木経惟氏、飯沢耕太郎氏、南條史生氏、森山大道氏、鈴木理策氏による公開審査会が行われました。受賞者による作品プレゼンテーション、審査員による質疑応答などが行われ、200名の入場者が見守るなか、2003年度グランプリに内原恭彦さん、佳作から奨励賞として笠木絵津子さん、野中元さん、松岡敦飛さんが選ばれました。



公募の審査にあたって
第26回 審査総評
荒木 経惟 Nobuyoshi Araki
言葉にさせない写真がいい。今回はクールな情熱を感じる写真が多かった。自分が写るのではなく、他者を撮って自分が出る写真がいい。見せるときはカードや額に入れないほうがいい。
飯沢 耕太郎 Kotaro Iizawa
今年もまた数に圧倒された。写真の内容が多岐にわたっているので見ているとひどく疲れる。目が慣れないままにジェットコースターに乗るように次の写真に移って行く。その眩暈の感覚は悪くないのだが。何枚かの写真をつなぎ合わせて日々の出来事を綴っていくような「日記」スタイルの作品は、今やよほど強い構成力を発揮しないと選ばれるのは難しくなってきている。この総評でもずっと言いつづけているのだが、なかなかわかってもらえないようだ。個をもう少し大きく、しかも力を込めて社会に開いていくようなアプローチが見たい。自己満足しているだけでは、自分の声はなかなか他者に届かないよ。
南條 史生 Fumio Nanjo
光と色の強い、明るい写真が増えてきた。それぞれにクオリティが高く、何かを見つけようとする姿勢がある。ピュアで透明感のある写真が多いように感じられた。なにげない日常の中に、何か普通でない異様なモノ、コト、時間が見出される。それを見出す能力は写真にとって一番重要なことなのかもしれない。
森山 大道 Daido Moriyama
これだけの点数の中から絞り込み、選んでいくという行為は、実に酷だし罪なことです。それぞれに自分のイメージ、考えがあり技術もしっかりしている。手を抜いて適当にやればいいという作品が少ないから、後はこちらの独断と偏見で選ぶしかない。それが辛かった。落ちた作品のどこが悪いかと言っても全然悪くないし、それが入っていても全然おかしくない。写真を、撮って、作り、見せるということに対する執着をみんなが持っている。去年よりもそれを強く感じた。選ぶというのは本当に暴力的な行為だ。
鈴木 理策 Risaku Suzuki
写真の歴史はそれを生む、カメラやフィルムの進歩とともにあったけど、現在のデジタル写真は映像が生まれる幅を更に広げて、今まで苦労して撮影していたものがあっさりと手に入る。物としての写真でなく、データに置き換わりながら、たち現れて、言葉みたいだと思ってしまうことさえある。そんな状況に自覚的だった?(本人はそんなことさえ気にしてないかもしれないけど)作品に目が惹かれた。内原さんの量による挑戦も藤田さんのあえて悪条件の撮影も、眼の欲求を満たしてくれるものだった。他の作品の多くがどこかで見たイメージでバランスをとってしまって、落としどころがあることが気になった。カメラを持つと、以前見た写真のイメージに絵合わせしてしまう事は起こるだろうけど、それは撮影してるというより撮らされてしまってる。極端な言い方になるけど絵柄よりもそれを求めた写真家の気持ちや考え方が大事なのでは。
マーティン・パー Martin Parr
審査会場に展示された何万もの写真はまるで洪水のようで、それらの大量の作品が発するパワーとエネルギーには眩暈を覚えるほどだった。しかし、丸一日、自分のペースで見て歩き、私自身の基準に委ねられ、優れた作品を選び出すという審査作業は実にエキサイティングで楽しい時間だった。今回、ここ10年余りにわたり日本のコンテンポラリー写真を席巻していたテーマ“プライベートライフ”への興味(執着)が次の段階への展開を予感させる、変化の兆しを見せていることに出会えたことは大きな収穫だった。確かに“ガールフレンド”、“車”、“自分の部屋”、“家族”、“動物”、など日常生活のシーンにカメラを向けるという傾向は今回も大勢を占めていたが、一部の応募者の作品に見られた視線は、その背後にある“社会の不安定さ”や、“経済の現状”などの社会性や、よりコンセプチュアルな思考性のあるセンスが働いていた。これは私の持論だが、コンテンポラリー写真はそうした思考に基づき、創作に向かうべきなのではないだろうか?ただ、この方向性を遂行するには、言うまでもないことだが、情熱と強い意志が必要である。“写真の力”を引き出すには、どの時代にも、どの状況においても、コンセプトを組み立てる思考に根ざした熱い情熱が必要なはずだ。
